2015.4.29
『日常生活の中で』
『日常生活の陥穽に心せよ』と今も自分に言い聞かせる。
大学入試だけを目的としていた予備校での国語の教師の言葉である。
その背景となった『夏の流れ」(丸山健二)の主人公は、ベテランの年齢に達した刑務官で、
仕事上誰かがせざるをえない死刑の執行にも立合い特別休暇や手当もあり、何の疑問も感じないまま
年月を経て来た。
しかし、新任の刑務官との交流の中で自分は殺人者ではないか、
すると我が子は殺人者の子か、という染みが拡がっていくという点が核心になる。
気にはなったものの10年以上経過して気づいた。
日常生活に埋没していると、盲目になる。
視点を変えよということ。
毎日繰り返す生活の中にこそ考える材料がある。
徹底的に考えた結果、会社を離れて自立しようと結論づけた。
人は何が出来るかではなく、何をするかなのだと。
さて、『侵略』の定義がないとまで言う総理、辺野古での『粛々』という言葉は
使用しないと言って、原発で粛々という言葉を使用する官房長官が現にいる。
歴史的文脈の中での言葉の意味が理解できないようだ。
侵略は国際法上、戦争に直結する。
陸大卒は費用がかかっている。それに対して学徒兵は費用がかかっていない。
だから『特攻』は学徒兵に命令する(作家の保阪正康の講演会)。
つまり、戦争をした意味を理解(=反省)できない指導者は軽々しく戦争を口にすべきではない。
想像できない人間ほど危険な存在はない。
以上