「抗議の先にあるもの」 藤村 敏さん(2)

2015年3月2日

 

沖縄への特別の配慮を願って自決した大田・海軍司令官は泣いている。

これが配慮なのかと。


昨年8月には、海上保安庁職員による暴行・障害、そしてこの2月には、

抗議のカヌーを沖合まで曳航放置し、またゲート前では2人が現行犯逮捕される事件も起きた。

現場の指揮官の判断ではなく、連携しての政府・アメリカ中枢の強い意志が推測される。

既定の国策なのだと。


わずか70年前の歴史が忘却されている。

国は、そして軍隊は国民を守らない。

沖縄県民という国民を守らない国は本当に必要なのか。

建設にあたり『環境アセス』が前提であった。

1996年には把握していたオスプレイの配備を隠し、ジュゴンを追い出したおそれのある

生態観察をしたという具体的事実と向き合うべきだ。

 

今は江戸時代ではない。

事前に環境に影響のある一定の事実を地域住民に提示しなければ、適切な意見がでるはずもない。

情報を開示しないから抗議される。

戦争にはもう加担したくないという必死の叫びが届かないまま基地建設が強行されれば、

腹の底からの怒りで血が流れる。

血に足がついた運動としての三里塚闘争を忘れたのか。

 

東京でも、1月には7千人で人間の鎖を作って国会を包囲し連帯の意思を示した。

人命優先の掛声は、まさに政治が沖縄の現実でこそ実践すべきではないか。

血が流れての民主主義は誰が責任を負うのか。



                           以上